2011/12/27

旅語り ライブ2

旅に魅了され続ける人のためのトークライブ、「旅語り」ライブ2のご案内です。
箱根在住の陶芸家・黒川淳さんを迎えて開催いたします。
黒川さんは2011年12月にいわむろや別邸 小鍛冶屋にて開催しました「黒川淳展〜灯りにつつまれて〜」でお世話になった作家さんです。

略歴にもありましたが、「2001年にピースボートで18カ国を巡る」というのがすぐに気になりました。
話を聞いてみると、その前後でも多くの渡航歴があるとのこと。
韓国、中国、台湾、ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシア、インド、ウズベキスタン、イラン、アラブ首長国、イエメン、トルコ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、チェコ、ポーランド、スイス、スペイン、イタリア、クロアチア、ギリシャ、カナリア諸島、モロッコ、チュニジア、リビア、エジブト、エリトリア、ケニア、ブラジル、べネズエラ、パナマ、エクアドル、イースター島、タヒチ、西サモア、アメリカ、カナダ

なんと、なんと...!!

これはぜひ話を聞かせていただきたいとお願いしました。
旅でえたインスピレーションをまた作陶へと注ぎ込んでいるとのこと。その記録と興奮をここで共有できたらと思います。

【 日 時 】2012年14日()
【 時 間 】19:00〜21:00
【 会 場 】いわむろや別邸 小鍛冶屋 (新潟市西蒲区岩室温泉666、駐車場はいわむろやを利用可)
【 会 費 】500円(ワンドリンク付)

新年早々の企画です。
弥彦神社への初詣、そして岩室温泉で温まり、夜は「旅語り」というのはいかがでしょうか?
旅語りライブ1の旅人ゴリちゃんの言葉を借りれば、これが「イワムロスタイル」ってことでしょうか。

今回の旅人・黒川淳さん
会場・いわむろや別邸 小鍛冶屋。岩室温泉のちょうど中央に位置します。(2011年12月下旬撮影・クリスマスを挟んで寒波がやってきました)
古民家×異国の話=○○○○
どんな旅語りになるのか!?

2011/12/26

旅語り ライブ1 報告

2011年12月6日(火)に行った「旅語り」ライブ1の報告です。

旅人ゴリちゃんが旅の先に見たのは「シェア飯」と「情熱温泉=岩室温泉」。

買い出しに行く人、料理をする人、後片付けをする人、場を盛り上げる人、参加する人がそれぞれの関わり方で、そして一期一会の出逢いの中でともに「飯を食べる」という時間を共有する喜び。旅館業という自身の生い立ちとともに語られ、導かれた「シェア飯」。

旅から戻り、岩室へと帰ったゴリちゃんがこれから向かうのが「情熱温泉」という源泉を掘ること。岩室という地名にも入っている「岩」という文字、「ここにいる人の中にも心を『岩』の壁に閉ざされた人がいるかもしれない。その『岩』を壊しちゃうような。一人一人が心をわくわくさせられるようなことに夢中になれる温泉街にしたい。僕の役割はその橋渡しなのかも知れない」。
2012年から3年間をかけて行われる「岩室温泉開湯300年祭」の実行メンバーでもあるゴリちゃんは旅から戻り、いまの心境をそう語った。

さぁ、これからの活動にも注目です。



以下に、写真と動画をアップしました!





2011/12/02

旅語り ライブ1

この度、「旅語り」と題し、旅に魅了され続ける人のためのライブを企画しました。各回、旅人をお呼びし、写真と音楽、そして旅のエピソードを語ってもらうライブを開催いたします。
いつの時代もどんな国でも人は旅をやめることはありません。
その旅の先に見たものをここで語り尽くします。

【日 時】12月6日(火)
【時 間】17:00〜 カフェオープン
      エチゴビール、富士見園の紅茶、宝山酒造の甘酒などドリンク類を用意しています。
    20:00〜 旅語りスタート
【会 場】いわむろや別邸 小鍛冶屋(新潟市西蒲区岩室温泉666)
       駐車場はいわむろやをご利用ください
【入 場】500円

「旅語り」ライブ1のゲスト旅人
[旅 人]ゴリちゃん
[期 間]2008年12月〜2009年5月
[旅 先]世界一周、13カ国
[旅の音楽]CARAVAN
[旅のモットー]ありのままを感じる+直感に従う=ゴリスタイル

-ゴリちゃんからのコメント-
25歳の時、ある旅人のトークライブを聴いたことをきっかけに1年間の旅に出る。国内と海外を半年ずつ、憧れの国を巡る。世界一周航空券を使い、地球をグルっと一回り。その旅の中で見つけ、いま新潟でやっていることが「シェア飯」。そのひらめきの興奮をここで語っちゃいマス!



会場・いわむろや別邸 小鍛冶屋


岩室温泉街に佇む古民家を会場に「旅語り」 を行います。




























より大きな地図で いわむろやマップ を表示



※ライブ前後の時間で岩室温泉を満喫!
いわむろやさんの足湯、よりなれさん、だいろの湯さんの入浴施設など、「旅語り」プラス岩室温泉もぜひお楽しみください。

私塾「長善館」

今年の4月に書いていた記事に出てきた「長善館」という私塾について最近、新潟日報の記事中に出てきました。
 2011年11月30日付け新潟日報の切り抜きです。

燕市が取り組んでいる「教育市立宣言」の一環で、「燕長善タイム」というものがあるそうです。 始業前の時間を使い、暗唱、音読、計算を行うとのこと。 これによって、生徒の集中力アップが期待できるというもの。

記事中に 〜長善館にちなんだ〜 と出てくるが、「長善館学則十一ヶ条」と読み比べてみるのも面白い。

2011/09/08

新潟き業人





















『新潟き業人』 発行・株式会社財界にいがた

新潟の様々な業界の創業者や後継者など経営者へのインタビューを集めた本である。
このインタビューがとても面白い。

経営者の苦悩、先代との確執、サービスにかける情熱、旺盛な好奇心、大胆な決断、先見の明、柔軟な思考、粘り強い忍耐、前例主義や成功体験との闘い。

58人の経営者の言葉から学ぶべきことは多い。
読前と読後では、掲載企業を見る目が変わる。
あの会社には経営者のこんな想いが込められていたのかとの発見が多い。
一消費者としてもこの街を見るさいの視野の深度がふかまる。

そして、財界にいがた記者の方々もよくここまで聞き出したなと思う。
この企画と取材にも尊敬の念をいだく。

見開きでひとつの企業が完結します。
ワクワクしながら読み進める本です。
オススメ。

2011/08/06

美術館と図書館へ

また夏が戻ってきたような暑さ。
新潟はこの週末はちょうどお祭り。

ちょっと前には長岡の花火大会。
私はほぼ日のサイトでやっていたユーストリーム中継で観覧。

今週は、新潟市美術館で開催中の「アール・ブリュット・ジャポネ展」へ行った。
知的障害や精神障害を持った人の作品展で、パリで展示されたものの一部が今回新潟にやってきた。

ひとつひとつの作品から感じる生きてるエネルギーのようなものが大きい。
純粋に、ただ黙々と、生きて、表現している姿が伝わってきた。
オススメ。


近所の県立図書館をぷらぷらと訪ねる。
たまたま目にとまった、尾原史和著『逆行』ミシマ社刊を借りる。

最初に就職した。
なんとな〜く...、就職した高知の印刷会社での話。

仕事の規模は、入る箱で決まる。
小さい箱に入る仕事は小さい仕事だし、きれいな箱には高級な仕事が入る話。

対象を「わかりやすく」伝える、「世界観」をどういうふうに感じさせるか。
物語を作り上げることがデザインをするという行為なんだって話。

などなど、面白いです。
オススメ。


以上です。

2011/08/02

生活空間から失われた色

ふと、気を抜くと涙が溢れそうになっていた。

東京都内のど真ん中。
28歳のいい大人が一人で、どうした。


---
先週末、東京に出たさいに一人の時間が出来たので、以前から気になっていた目黒区駒場にある日本民藝館に行った。
特別展の「芹沢銈介と柳悦孝 ー染と織のしごとー 」が開催されていた。

染色作家・芹沢銈介のその「色」を見ているときだった。

私たちは今現在、生活していて意識的にも無意識のうちにも様々な「色」に囲まれている。
それは自分の部屋の壁紙、お店の玄関マット、デートで彼女が着ている洋服、好きな映画のフライヤー、鼻水をかむときに手を伸ばすティッシュボックス、ガソリンスタンドの大きな看板、いきつけの飲食店の椅子、それはもう無数に存在する「色」、また、「色」。

一人、のんびりと展示を眺め気づいた。草木などの自然素材で染められた着物や屏風、絵巻のその豊かな色は、私の生活空間からは既に失われた色である。しかし、その色はたった100年前、この日本という国の生活空間に溢れていた「色」であることにも。

お店をくぐる暖簾、母が来ていた着物、お歳暮をつつんだ風呂敷、床の間にかけられた掛け軸などにあった、日本の「色」。山や田畑の恵、自然素材で染められたそれらの「色」は生活空間にあって、意識的にも無意識にもたった100年前の私たちの先祖はそれらの「色」と暮らしていた。

今更ながら気づかされた。普段、パソコンに向かってCMYKやらRGBの数字を調整しているようではまったく感じられない感動があった。なぜかはわかならない、展示から私が受け取ったのは「優しさ」であった。その温かな「色」の感触に触れていることが、不意に涙を誘ったのだ。

芹沢銈介がどんな人でどんな思いで作品を残したかという事前の知識はまったくない状態で展示を眺め、「色」そのものに感動したこと。それと、前記のブログ記事・小林章氏のフォントの本から感じたことが似ている気もする。誰がどうして、こうしたといった「内容」よりも、文字の造形そのものに感動すること。このように突如として迫ってくる感動もあるということが少し身体に入ってきている。

ここ新潟では海を焦がす夕焼け、実りの秋に向かって穂を揺らす稲は緑から黄金に、夏の強い日差しを浴びてなお青々とひかる海、三面川をのぼる鮭のはらこの艶!!(あっ、最後に食い意地が...笑)

豊かな「色」はいまも残るはず。完全に絶やすのも僕らの世代。記憶と記録と技を繋ぐのも僕らの世代。その価値に気づけるのか。今一度、この豊かな日本の「色」、そして、世界中の豊かな「色」に意識を傾けたい。




































日本民藝館
http://www.mingeikan.or.jp/

静岡市立芹沢銈介美術館
http://www.seribi.jp/index.html
※静岡方面に用事を作って行ってみたいな!!

2011/07/27

和菓子で涼を

























なんとも涼しげな和菓子でしょうか。
金魚が泳いでいます。
夏の真ん中。
こどもたちは夏休み。

今年もすでに折り返しています。
近頃は焦りとともに過ごしています。

2011/07/20

夏の大地の恵

夏の大地の恵をありがたくいただく日々。
7月に入ってからは夏の野菜が盛りだくさん。
まずはジャガイモとタマネギを大量消費しています。

カレーを作ったり、
肉じゃがにしたり。
と、いうのも味付けが違うだけで、
材料はほぼ同じだから(笑)。



そして、ポテトサラダを作っては
彩りに紫タマネギを使ってみたり、
キュウリの緑と合わせて色が映えますね。
















そうこうしているうちに、
トウモロコシをいただいてきました。
ありがたい。

白根のものだそうで、朝取りでした。
甘みがギュギュッとつまってました。




ゆで上がり!





















新潟の夏はなんと食に恵まれていることか。

蛇足ですが、
昨今のニュースを追っていると、「食」の自給、
もしくは独自の入手ルートといったものが必要なのではと思います。
また、エネルギーに関しても、個人なのかある小さなコミュニティ単位なのか
自給できることが必要なのではと思います。
食とエネルギーの自給について、ひとつアンテナを立てたいと思います。

2011/07/14

フォントへの愛・街の見方を一変させる

私は友人・知人に勧められた本はたいてい読むことにしている。
(たぶん9割がた読む。買わなくとも本屋で手に取る!)
自身の偏狭な視野を広げてくれるかっこうの機会だからだ。

今晩、手に取った本もそのひとつ。

























『フォントのふしぎ』小林 章 著・株式会社美術出版社

この本もまたページをめくるのが本当に楽しい。

著者の小林氏はドイツにあるライノタイプ社に勤めるタイプ・ディレクター。
語り口はあくまで小林氏の「生活」の中から語られる。

たまたま寄った市場で見た文字。
出張先のイギリスで見た看板。
チョコレートを買ったさいの紙袋。
有名ブランドのロゴマーク。
地下鉄や高速道路の標識。
古代ローマの建造物。

























そんな例を挙げながら、「実はね、このフォントはね、」
とやさしく解きほぐす。

早速、自宅のマックに入っているフォントに関しては、
どんどん試す。(これが楽しい)

本書にも出てきたsunToRYサントリーは(笑、読むとわかります)
自宅にあったペットボトルでも確認出来た。

そして、新潟の「イタリアン」についても話は流れ。

フォントへの愛をここまで感じてしまうと、小林氏の作った「Clifford(クリフォード)」を
使ってみたくなる。
デザインを生業にしている訳ではないんだが...そういう気分にさせる(笑)。

私にとっては、街歩きを一変させるかのような本だった。
「フォント」という新しい視点を持って、今一度、街を見ていこう。
きっと楽しくなる。

2011/07/12

独学の精神

まだ梅雨のさなかだった。
阿賀野市にある吉田東伍記念博物館を訪ねた。
道中、どしゃぶりの中、なんだか気が重いなと思っていたが、
博物館の庭の苔や石がいい色だったのでそれも吹き飛んだ。
庭を見るには雨のほうがいいのかも。


















1907年(明治40年)、一人の在野の研究者が「大日本地名辞書」を書き上げた。
1,200万字におよぶ辞書を12年と2ヶ月にわたって。
休みなく書いたとしても、400字詰め原稿用紙で6枚/日となる。
日本全国の地名にまつわる由来・風土・歴史をまとめていった。
文献を読み解き、史実にもとづいた内容を整理し、判断する作業の繰り返しだ。

そんな偉業を成し遂げたのが吉田東伍。
越後国北蒲原郡安田村の旗野家に生まれる。



















四つの学校を変えたあげく、新潟学校中等部に移るも
中退。
学歴を問われると「図書館卒」と答えたそう。

作業に取りかかったのは32歳。
海軍記者として日清戦争に従軍するもマラリアに関わり療養のため帰郷、その年の9月頃着手。

展示の中で興味深かったのは、
辞書の項目分け。行政が敷いた区画単位でない、古来からその土地のもつ歴史風土、共同性をふまえた区分けにされていること。
1906年(明治39年)から明治政府によって進められた神社合祀にも強く反対したこと。
歴史を語るときも古代から学ぶのではなく、現在(いま)から始まって、古代へと学びゆくこと。
あとは使用していた机の置物がかわいい猫だったこと(笑)。

私の住まい「鳥屋野」や実家の「和納」の項を引いてなるほど〜!!
と面白かったです。






















博物館近くのラーメンのろしを食べて帰宅。
ちょっとしたドライブにぜひ。

2011/07/11

あの絵に会いに行きたいと

すでに真夏のようなうだる暑さの続く新潟。
夜もまた暑い。

どこか気持ちだけでも別世界にもってってくれないかと思い
ある夜、手に取った本がこれ。(知人から借りました)

『名画の館から』大川栄二著





















群馬県桐生市にある大川美術館の館長が地元紙「桐生タイムス」に寄稿した文章を本にまとめたものです。
大川氏の解説つきで、美術館を案内されているかのような気分になりました。
そして、大川氏が心の底から芸術を愛していることが伝わる文章がなんとも楽しい。
作家ごとの生い立ちや死に様、大川氏がその作品をどうとらえたかをちょうど良い文量で掲載されて、ページをめくるリズムもまたワクワク感を損なわずにいい。





















ベン・シャーンの「ベンチの人」(1930年頃の作品)の項では
こう語りかける。
「この荷物の中に、何が入っているのでしょう。死んだお母さんの形見かな、それとも歯ブラシかな、下着かな。豊かなアメリカの裏側にこういう人達がいることを世に訴えている、心の優しい絵なのです。」

絵を楽しく観るのに大川氏がそっと側で、語りかけてるかのような一文。





















藤田嗣治の「若い女」(1913年頃の作品)の項での
解説には
「渡仏直後の高揚した時期の作品であり、青年ピカソと交遊していた時期だけに当時彼が興味を持ったアフリカ彫刻の臭いが強く感じられる佳品です。」

美術史に知識のない私にとっても作家のおかれた状況を垣間見るのにありがたい文章。





















須田剋太の「作品」(1960年代の作品)の項では
日本人に欠けている点にまで話は及ぶ、
「この抽象画は切り裂かれんばかりの筆致、たたき付けた絵具で主張する自己の心の動きは、まさに須田だけの世界です。有名よりも無名を、新しさよりも古きに徹することで、本当の新しさは生まれるという信念を持ったすごい画家です。」
「これは画家に限らず、人生何にも通ずる人間の極意であり、いま日本人に一番欠けている点といわれています。これからの国際化の時代には、古いものを愛せない人間は駄目です。絵を好きになる人には、こういう人はほとんどいないのです。」

大川氏は三井物産やダイエーでキャリアを重ねてきました。その経歴から、世界から日本を見てこの文章が出たのかなと想像しました。





















中川紀元の「婦人像」(1920年頃の作品)の項では
マティスに影響を受けすぎた中川紀元を
「この絵はマティスに直接教えを受けた時期のもので、平面的な構成のもと、大胆に、そして装飾的に生きた線を重ねた絶品ですが、どうしてもマティスが浮かんでくるのが残念です。」
しかし、小生にはかつて会社から疲れて帰った応接間で温かく迎えてくれる、西洋の肝っ玉かあさんでありました。」
と、あくまで自分の体験に引きつけて語っていく文章もいい。


読後、これらの絵に会いに行きたいなと思いました。
そこで、自分はどう思うのか。
群馬県なら小旅行にちょうどいい距離、一年以内の計画に。

一冊の本が真夏の夜、私を遠くへ連れて行ってくれました。
一気に読み通すと、時刻はとっくに日付をまたいで深夜へ。

2011/06/24

新潟JCフォーラム 地域コミュニティについて

先日、第37回新潟JCフォーラム「地域の課題は自分たちで解決する!」〜新しい地域コミュニティの姿を目指して〜という講演会を聴いてきました。

ゲスト講師に櫻井常矢氏(高崎経済大学地域政策部 准教授)を迎えての講演でした。
櫻井氏は地域コミュニティの重要性をうったえ、実際に群馬・宮城・山形など全国でまちづくりの実践を行っている教授です。

今回のように市民講座としてひらかれた会合は私のような一般市民にとってはありがたい。普段なら聞けないような話を聞かせてもらえる。主催の社団法人新潟青年会議所さんに感謝。

メモを取りながら大変興味深く聴かせていただいた。


無縁社会ともいわれる昨今の日本社会。そこでは身よりのいない孤独死が急増しているという。今回の東日本大震災においても、倒壊した家屋に独り暮らしのおばあさんがいるということが共有されている地域とそうでない地域があったという。

櫻井氏が実践の中で見てきた例で、農村部の20〜30代の自殺率の高さがあげられた。

この話は私も実感あるものとして聞いた。今は情報だけは都市部に住む若者と農村部に住む若者はほぼ差はない。農村部に住む若者もインターネットやテレビなどを通して華やかな情報を大量に得ることが出来る。しかし、実生活において、そこで得た情報と大きな差が生まれる。そのギャップに苦しむことになる。

また、団塊世代の次の生き方探しとして地域の中にそれを見つけたいというニーズがあるという。高崎で行っている退職サラリーマンの地域デビュー講座は満員盛況となるそうだ。

新しい地域コミュニティ作りで大切なキーワードとして「地縁」と「志縁」があげられた。

「地縁」とは、
町内会や自治会単位の限られた範囲内の問題を解決するために結ばれる縁。いつも人が限られて会議は停滞気味になる傾向がある。同意するまでに時間がかかり過ぎること。しかし、一度同意を得たあとの結束力が凄い!

「志縁」とは、
ある特定の問題を解決するために結ばれる縁。子育てやアート、まちづくりなど、テーマに対して人が集うので土地は限られない。外の地域と繋がりが生まれやすのが特徴。

このどちらも大切で、特性をふまえた上での地域作りが必要とのこと。

そして、「目的は何か?」、「つなぎ役の必要」、「共同性の強さと弱さ」の3つの行動基準が示された。

「目的は何か?」
まずはその地域の課題を明確にすることが必要。「会議」ではなく「話し合い」の文化を醸成することが必要。

「つなぎ役の必要」
いま地域が抱える課題は単独の組織では解決不可能で、自治会、コミュニティ協議会、NPO、学校、公民館、行政、社会福祉協議会、事業者などが連携しなければいけない。そのつなぎ役が必要。

「共同性の強さと弱さ」
これまでの同質社会から異質社会への変化。丁寧な信頼関係の醸成。地域コミュニティの開放性。


色々と勉強させてもらいました。
ひとつの事例で、山形県のある自治会で役員を20〜30代の若者にまかせてうまくいっている例をあげていた。
地域社会の中で、自分の存在価値を与えてもらう、というのか、作る、創るような機会が必要だと思いました。


今回の講座は社団法人新潟青年会議所の地域コミュニティ復権委員会が担当したそうです。新潟青年会議所は下の写真のような会報も作って活動を発信しています。会報では第57代理事長の敦井一友氏が新潟のまちづくりについて対談しています。


市町村合併により、吸収された地域では市議会議員の数が減り、地域住民の声が市政に届きにくくなったことをあげ、地域住民の主体的な行動が試されているとのこと。

そして、新潟市で議論されている新公共交通についても、整備されれば人が集まるというよりは、本当に行きたいところがあるのかどうか?が大切で、そのための議論が不足していると。
また、中心市街地はある意味で「公」のものという認識を高め、商店街が一丸となることが大切。場合によっては業種転換することも必要。
時代の変化に対応したまちづくりについて、新潟青年会議所メンバーが担える役割もある。


そのような対談が掲載されています。


新潟青年会議所の会合には初めて参加させていただきました。
一体、何をする団体だろう?
会報には以下のような団体主旨が書かれています。

「社団法人新潟青年会議所は”明るい豊かな社会”の実現を共通の理想とした、次代の担い手たる20歳から40歳までの指導者たらんとする青年の団体です。」

ホームページを見てみると、


約170名ほどの会員がいて、
「真のこころ育成」
「地域コミュニティ復権」
「環境共生推進」
「新しい地域の姿確立」
「都市モビリティ向上」
「郷土の力研究」
「国際経済」
「情報力実践」
「オリエンテーション」
「リーダーシップ開拓」
「会員ネットワーク開発」
等々、の委員会に分かれて勉強会を企画したり、自己啓発に励んだりしているとのこと。


一般公開の講座で興味が湧くものがあったらぜひまた参加してみたいと思います。

2011/06/23

丹藤亜希子さん「トゥーランドット」

LIFE-mag vol.004で取材させていただいた丹藤亜希子さんが主演するオペラが来月あります。

二期会創立60周年記念公演で行われます。
演目は「トゥーランドット」です。

























6月22日付け新潟日報の17面にもインタビュー記事が掲載されていました。





















LIFE-magのインタビューでもお話して下さいましたが、決して早熟ではなかったとのこと。それでも自分のペースを崩さずコツコツと技術を磨いてきた丹藤さん。
そして、2011年、大舞台へ!

2011/06/16

旬のものをつぎつぎと




ありがたや。
そら豆をどんどん食べています。
いきがいいので皮をむく作業をしていると水分をたくさん含んでいるのがわかります。
これまたお酒によくあうことなんの。

2011/06/15

ときには恋愛について





「小林秀雄全作品25 人間の建設」
平成16年10月10日 株式会社新潮社 発行

この中に収められている「対談/教養ということ 田中美知太郎・小林秀雄」から
面白いなと思ったところをひとつ。

(57p.)田中氏・「恋愛というようなことでも、相手が自分を好いてくれるかどうかということよりも、相手が結婚にふみきるための外部条件みたいなものばかりが主要なことになって、そういうまわりの条件さえ整えば、それで相手はイエスを言うはずだと考えたりすることがあるのですね。だから、いざノーを言われたりすると、どうしてもわからないということになる。そんなはずはないというのですね。しかし好き嫌いをたしかめるのが先決問題じゃあないんですかね。しかしこんなのは旧式な考え方で、まわりから条件をそろえて行けば、好き嫌いなんてことは、簡単に片づくというのが、むしろ今日的な考えになるのかもしれない。つまり今日では政治でも経済でも、何でも計算し、計量して、まわりから攻めていくやり方が主になっている。社会科学でも、計量可能の領域が拡大されて行って、全体を自然科学に近づけるという考え方があるように思うんですがね。」

(58p.)小林氏・「それが根底でしょうね。そういう学問についての教育の仕方がまちがっているんじゃないかと思うんだな。いまの恋愛の話じゃないけれど、好き嫌いという問題が後まわしになっている。孔子がいっているね、「知る者は好む者に及ばない。好む者は喜ぶ者に及ばない」。好むとか喜ぶと言うことが孔子にとっては根底的だったのだな。最も現実的なことだったんだな。知るということはひとまず現実から離れてもいいことなんだ。そうした根底的なものの認識が、いま逆になっている傾向があるんじゃないかな。現実的なものは計量可能な、合理的なもの、そうなった。」


この後の対談、プラトンが教育の根本は好き嫌いだということから芸術教育を重視したこと。教育は説教ではなく習慣だということ。「万葉集」を学ぶにしてもその姿から入ることの大切さ(「万葉集」の解説や周辺知識よりも暗誦させること)など、面白いな〜と思いました。

この対談は昭和39年6月の『中央公論』に掲載されたもの。
なんだか、いまの時代にも当てはまるよなと思いながら読む。

「どんな人が好みですか?」
「どこが好きになったの?」
「結婚するならどんな人がいい?」

などなど、よく交わされる会話がある。

年収なのか?ファッションなのか?学歴なのか?優しさなのか?フィーリングなのか?

「歴史を学ぶのは、今の日本が向かうべき道を示すためなのか?」
「数学を学ぶのは、売上の計算をするためなのか?理系のほうが就職に有利だからなのか?」

いやはや、どうしても好きだからであり、それこそが生きる喜びだから、そういう気がする。

2011/05/28

花は咲く場所を選びはしない

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借りている駐車場の近く、
アスファルトの隙間から顔をのぞかせていた花。
パソコンの手元で挿してみる。

新緑の候 陽気な顔でこちらを見つめる。

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ちょうど机回りを整理していたところ、
学生時代に聴いていたCDが出てきてかけてみる。


STANCE PUNKS「クソッタレ解放区〜クソッタレ2〜」2002年4月10日リリース


「今しか見えないどれだけの言葉が
僕らの目の前を駆け抜けたんだろう
花は咲く場所を選びはしないんだ
さあ今だ立ち上がれ
僕らクソッタレだ!」

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陽気な花と情熱的な音楽で机を飾る。

今年は暦の入梅より少し早く、梅雨となりそうですね。

山の恵みをいただく


今年は山菜の「こごみ」をたくさん食べました。
マヨネーズ&醤油で食べるともういくらでも(笑)。
自宅台所のコンロの焦げが見えて恥ずかしいですが...
よく茹でて食べました。 



こちらは『職場の教養』2011年4月号。
会社が社団法人倫理研究所の会員となっていると
会社で手に取ったことのある人もいるはず。
朝礼で読み上げたりするのかな?

「質の良い仕事は 質の良い食事から」と題して
後半部分に特集があります。

〜山野に自生する山菜のパワー〜 とのキャッチ

たしかに最近、感じたんですが、
野菜や山菜などの量を多くして、いつもより少なめの食事をすると
その後、頭の働きや身体の動きがいい気がします。

この冊子の発行元支部である、
新潟県倫理法人会は長岡市に本部を置いています。
県内各支部ごとにおいても活発な活動をしているようです。
私はたまたま出かけた先で一部いただきました。

2011/05/11

「寺子屋」あるいは「私塾」について009 -補-

4月からずっとドタバタしていて、GW中も続いた。ある日、右のこめかみと後頭部の頭痛が強くなり、さすがにまずいなと思い、その日は早めに就寝。ようやく一息。


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私は中学時代や高校時代の授業に面白さを感じることなく、「ドカベン」や「H2」、「ろくでなしブルース」、「こち亀」(80巻くらいまでは読破していた笑)など少年漫画を読みふけって過ごしてきた。もちろんテストの成績も悪く、部活にも所属していないとくれば、「学校や先生」からの評価はよろしくなかっただろう。


「それは学生時代、お前の教養と感性の乏しさだ!」との批判は一手に引き受けることにする。それでも文章を続ける。


しかし、私の場合は「学校や先生」に反抗したいという思いはまったくなかった。ただ、「学校や先生」から学ぶコトへの喜びや興奮、面白さを感じることがなかっただけである。
幸いにも多くの友人に恵まれ、学外で熱中できる趣味もあり、そちらに情熱と時間をかたむけてきた。これは幸運だった。


それでも今回、江戸期の「寺子屋」や「私塾」に惹かれたのはなぜだろう?
「なんだか楽しそうだな、羨ましいな」、シンプルにこう思ったからだ。
いま自分の住む街にも、学ぶ興奮に浸り、魅力ある講師を迎えられる場があればいいな!!
切望します!!(お前が作れよと言われそうだが...)


前掲記事以外に知見したことはないし、私の過ごした学校生活は10年も前になる、今の学校教育が私の受けたものより、学ぶ喜びと興奮に満ちたものに改善されていることを願う。

「寺子屋」あるいは「私塾」について008


「寺子屋」と「私塾」の引用と箇条書きメモもひと区切りにします。

伊東多三郎氏著
『近世史の研究 第三冊 文化論・生活論・学問論・史学論』
株式会社吉川弘文館・昭和58年6月1日発行
定価7,800円



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(298p.)庶民の生かじり学問は家業を怠り、身を誤るもとだから、学問に深入りし凝ることは無用だという考えが、庶民生活の常識ともなっていた。

江戸期の思想家、石田梅岩はこう応える。
「学問をして人柄が悪くなるようなのは正しい学問でないからだ、真の学問はそのような悪事を直すものだ、真の学問の道は第一に身を敬み、義を以て君を貴び、仁愛を以て父母に仕え、信を以て友と交り、広く人を愛し、貧窮の人を愍み、功あれど誇らず、衣類諸道具等に至まで倹約を守って美麗をなさず、家業に疎からず、財宝は入るを計って出すことを知り、法を守って家を治めるものだという。」

国学者・鈴木雅之の民政要論「農民の不幸は貧と愚とによるのであるから、これを救うには公正な政治と経済とが必要であるが、なお根本対策としては、真正の学問の振興が大事である」


(322p.)結論「その荷担者は郷村社会の支配勢力をなす富商・地主層であり、彼等が武士階級と一般庶民階級との間に中堅層として確実に勢力を築いたことを考え合わせると、彼等が推進せる郷村社会の学問教育は近世学術史上だけでなく、封建制度衰亡史上にも深い関係を持つものである。何故なら、この学問と教育との成果が郷村社会の産業経済の発達の精神的・技術的基盤を形成し、更に尊攘思想の点火によって政治的意識の自覚へ燃え上がる要素を含んでいたからである。」

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いくつかの文献をあたってみて、江戸期の教育の豊かさを垣間見た。
調べることの面白さを改めて体験した。

これはタイトルにある「寺子屋」や「私塾」について正確に記すことなく、私の偏った記事とメモのまま、ひと区切りとする。

越後の国・現代の新潟に伊東氏のいうところの教育に理解のある「富商・地主」はいないものか?伊東氏が存命ならば、ぜひとも伺ってみたく思う。
現代の新潟においても多くの富を築いた社長は多い。リーマンショック以後の新聞記事の経済欄を見ていても過去最高益を出したとの記事は散見される。地方銀行や建設業ももちろんそのひとつ。

閉塞しきりの日本を変えていくのも、志の高い政治家や優等生の行政マン、というよりは地方ごとにいるリーダー「富商・地主」の果たすべき役割は多いように思う。

「寺子屋」あるいは「私塾」について007

号が変わって、第三冊です。


伊東多三郎氏の『近世史の研究 第三冊 文化論・生活論・学問論・史学論』株式会社吉川弘文館が昭和58年6月1日発行。


定価7,800円とお高いので、もちろん図書館。正確には新潟市中央図書館ほんぽーとのお世話になりました。


以下に箇条書きメモ。


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第一部・文化論において、江戸後期の日本北方開拓に発揮された探検的精神を取り上げた項。


(67p.)一国民・一民族の文化はその民族性や自然的立地条件に依存するから、その歴史過程で政治的・経済的条件の変化によって盛衰、または発展退化が起こったとしても、その特性にまで本質的な変化を引き起こすことは少ない。それよりもむしろ他国民・異民族との接触・交渉によって、国民的文化圏・民族的伝統に大きな変化が起こる場合がある。もし内に政治的・経済的条件の変化が暖慢であり、外に対外的関係の影響が少ないときには、一国民・一民族の文化はその文化圏の限界の内部で自己完了的に成熟するままに、発展の新芽を伸ばすことなく立ち腐れの状態を呈すこともある。特に日本文化史では政治的・経済的条件の変化が急激ではなかったから、外国との交渉、外来文化の摂取が既成文化の自己完了性を打破してさらに発展と進歩への刺激的・栄養素となっている。既成文化の温床の上で眠りこもうとする民族の精神が対外関係の刺激によって緊張し、活力を回復する過程が、日本文化史の一傾向であることを考えれば、文化史研究の問題として対外関係の重要性は説明するまでもない。


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非常に示唆に富む文章である。この段落が照らしている事例は数知れないと思う。
あぁ、この段落に出会えて良かった。
なんだか久々にそう思える文章でした。


異文化との接触において、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』平凡社ライブラリーが興味深いなと思っていたところ。
1,900円か、本代がかさんで生活が...。
線をひいたり、たまに読み返したりするので、ついつい「買って読む」ほうを選択しがちです。

「寺子屋」あるいは「私塾」について006


引き続き、
株式会社吉川弘文館
昭和57年7月10日発行
『近世史の研究 第二冊 国学と洋学』
伊東多三郎氏著


箇条書きメモ。

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江戸期の国学者として大きな影響を与えた者として平田篤胤(江戸後期の国学者)号を気吹舎をあげている。

(160p.)「地方の庄屋・地主層その他の豪家の郷村生活における勢力は、幕末に近付くにしたがい、武士の支配力の弛緩と反比例して、自主的態勢を示すのであって、之が文化の方面にも現れて、学問の普及が著しかったが、国家意識開明の一般的風潮と共に自らその方向を辿る勢をも現して居る。その場合、国学は古典の学でありながら、彼等の生活意識に近接した要素を持ち運んだのである。それは何か。整然たる理論体系としてでなく、生活意識、又は生活感情として実践的意義を持つ神祇信仰と古典文学である。いわゆる敬神崇祖の風が郷村生活の秩序、例えば臨時恒例の郷村行事に示される協同生活に溶け込んで居る状態の下では、この生活様式を通じて、国学は庶民生活と一見疎遠のごとくして実は親近の関係を持つことができた。そしてこの関係は、直ちに郷土の感情と連なるのである。又我が国の古典、特に歌道を通じて、伝統的文化と結び付き、復古思想の発展の道が開かれるのであった。」

(162p.)篤胤の学統ではない国学者として、西蒲原郡岩室の庄屋の高島正興が上げられている。寛政11年に生まれ、安政3年に歿した人である。歌道、書画、茶湯、生花、兵法、典礼等に通じて、それにもまして、敬神尊皇の志に厚く、四方に周遊し、諸社の由緒を調査して宮柱三巻を著し、皇居の朽廃を嘆いて修築の費を献じ、嘉永2年、大神宮の遷宮式典に参列して神鏡を受けて帰郷し、神明社を建てて奉納した。また、対外関係の紛糾を憂えて外国事情を研究し、異国事略四巻を著述している。それ以外にも、神代直語一巻、蛇足六巻、千広の浜つと三巻、万葉抄三巻、祭祀の古実一巻、伊勢道の記三巻、歌集四巻がある。


(179p.要約)江戸時代は庶民文化が発達した時代である。一般には大都市の消費生活に花咲いた芸能的文化にばかり注意する偏向がある。しかし、庶民文化・地方文化は近代文化の同質性・一元性とは違い、各地方の生活と文化は割拠性・身分制により多元性・異質性を内に含む封建時代であった。


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ふむふむと興味深く読んだ。
キーワードとして、
「神祇信仰と古典文学」、
「岩室の庄屋の高島正興」、
「多元性・異質性を内に含む封建時代」、
についてはもう少し追いかけてみたい。

「寺子屋」あるいは「私塾」について005

株式会社吉川弘文館より昭和57年7月10日発行された『近世史の研究 第二冊 国学と洋学』著者は伊東多三郎氏。明治42年の新潟県長岡市生まれ、著作が発行されたときは埼玉県大宮市に住まわれていたそうです。東京帝国大学名誉教授。
定価5,800円、高価な本なのでもちろん図書館で借りて読むことにした。
以下に要約メモ。
段落ごとにつながりがない箇所もあるので、箇条書きメモとして記します。

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国学は江戸時代に興った学問・思想体系。
しかし、江戸期に学問といえば大陸より受け入れられた儒学とされていた。
また宗教でも仏教が最も盛んで、これも起源は印度であった。
そこに、これ等が渡来する以前の日本の思想の顕現を計ることを目的として国学は興った。国学者は古事記・日本書紀・万葉集などを研究した。

(148p,)「越後の文化は信濃川・阿賀野川二代河川の流域に開けた広大な越後平野の土壌を度外視しては語ることができない。越後平野のように、水田農業が典型的に発達した地方では、新田開発、水利施設の整備、村落の増加、地主勢力の擡頭、地域的中心都市の簇生などを条件として、独自の文化史的性格をはっきり見ることができる。」

江戸初期の越後の石高は40数万石が幕末には100数十万石に増加。村落の数で言えば、初期に3000余村だったのが、幕末には4000を遙かに超えた。越後の興隆に教育が果たした役割を評し、そして、庄屋・地主層が担った役割をこう分析する。

(149p,)「彼等の大部分は、その土地の草分けとして根強い潜勢力を持ち、数代にわたって郷村社会の家長的権威と徳望とを蓄積して来たのであるが、それはただ社会・経済生活の方面でなく、信仰・学芸の方面においても顕著である。或いは居村に神社を勧請し、寺院を建立して郷民の信仰の中心としたり、或いは家塾を開いて郷党の子弟の教育に努めたり、或いは来遊の学者、文人、画家などを滞在させて教を受けたり、進んでは江戸に遊学して、有名な学者に師事し、幕府の昌平坂学問所に入学する者さえあった。」

2011/05/10

「寺子屋」あるいは「私塾」について004

良寛は言った「いずれきっと名を成すにちがいない」。


西蒲原郡粟生津村の長善館・塾長鈴木文台(寛政8年(1796年)生まれ)をそう評した。
早熟な文台が19歳で江戸へ出る直前、牧ヶ花村(西蒲原郡分水町)の名家解良家で「論語」、「唐詩選」の講釈を聞いた際の良寛の言葉である。
文台は江戸へ出るが定師につかずに独学の道を歩んだ。
3年後、病を得て帰郷した文台は牧ヶ花村の掬水庵などで授業しながら、学んだ。
そして、天保4年(1833年)、文台38歳のとき、長善館を開いた。


「長善館学則」十一ヶ条
一、朝は早く起き、夜の課業は亥の時(午後九時から十一時)まで、ただし年少者は、このかぎりではない。
一、授業を受けるときは、口をすすぎ、手を洗うこと。
一、午前は袴を着ること。
一、午前は素読が終わった後、線香一本がともる間休み。
一、昼食後は線香半分がともる間休み、午後二時頃同じく一本休み。
一、一の日は詩作会の後、午後は髪を梳かし、入浴する。
一、六の日は複読と輪講。
一、四書五経は必ずまず、古註を基本にして、清(中国)の儒者の考証と歴代の諸賢の説を探って正しい道理を学び求めること。
一、小学は、爾雅、説文、広雅、字典を学ぶこと。
一、歴史・諸子百家は必要に応じて学ぶこと。
一、詩文は文選を学び、また李白、杜甫、韓愈、柳宗元、白居易(ともに中国唐時代の詩人)を読むこと。その他の著述については、各自の学力に応じて読むこと。粗雑にならないように。


「学軌」と題する一文に『孝経』を重視し「学とは何ぞ、孝悌のみ」と断言していたことから、孝悌(父母に孝行で、兄や目上の人によく従うこと)が長善館教育の精神であったと思われる。






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前掲記事と同じく、高木靖文氏(新潟大学)の章の要約メモ。
良寛とのやり取りを想像すると面白い。実際にこういった交流が幾十にも重なって、思想と情報が行き交っていたのか。
学則にしても、現在の教育に活かされるべき、または脈々と受け継がれている項目がある。
いやはや、江戸後期、越後の国の教育に驚く。

2011/05/06

「寺子屋」あるいは「私塾」について003


そして、高木靖文氏(新潟大学)の章の要約メモ。
刈羽郡の三余堂です!


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近世初期の越後・佐渡の学問は海運の便もあり、京都・大阪からの影響が強かった。
有力諸藩から家臣として学びに出る者もあれば、藩とは関係なく自ら遊学に出向く者もあった。
儒学・医学・本草学(薬学)などが伝えられた。

刈羽郡北条村大字南条にあった私塾「三余堂」。
塾主は藍沢要助、字を子敬、南条をその号とした。
南条は寛政4年(1792年)生まれ、父は三島郡片貝村の郷塾・朝陽館の教師をしていた北溟。
朝陽館は村内の有力者が儒学を修め江戸にいた北溟を呼び、共同設立した近世越後では珍しい形であった。
北溟がリューマチに罹り亡くなったため、母方の実家に移り住んだ先が刈羽郡であった。
南条は江戸に出て折衷学を学んだ後、29歳で帰郷して三余堂を開いた。
学舎は東西5間、南北15間の広さで100人の門人を収容することが出来た。
その名声は会津(福島県)、能登(石川県)、尾張(愛知県)から入門者があったことをみると、いかにその名を広げていたのかがわかる。

三余とは冬・夜・雨の日など学問すべき時をさしていて、南条の教育観を示した言葉である。
三余堂の教育は、経書、歴史、詩文の学習を中心に据えて、門人の能力は学業の進度に応じた指導がなされた。
南条の主著「三余雑著」には「子弟を教育するには、仁がもっとも大切であると思う」とあり、厳格な礼儀を重要視した。課業を嫌った孫を雪中に投げ込んだとの逸話も。
南条が修めた折衷学は「三教一帰序」、「殊途同帰」、すなわち儒教・仏教・神道はいずれも聖堂から生じ、等しく真理を述べていると考えたからであり、特定の学問や教養だけが正しいとする立場に批判的であった。

また、南条は詩を作り楽しむことも勧めた。「南条三余草抄」巻一、「贅言三条」には「世の学者で、もっぱら経書や歴史を研究して詩など韻文を好まない者は、必ず柔和さ篤実さが足りません。それは、詩から生じる教えを用いないからです。反対に詩を好み経書や歴史を研究しない者は、必ずつつしみ深さや厳格さが乏しくなります。それは、人のふみ行うべき秩序の教えを用いないからです。両方ともに、どちらか一方ではかたよります。ですから、経書や歴史の研究の合間に心の動きを詩歌に詠んだりして、柔和で篤実な精神を養うべきです。」と述べている。

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三余堂の設立の経緯に驚く。村民が共同出資してまで、教育機関を作ろうとした民意!
そして、南条のバランス感覚!見習わねばいけないな。

「寺子屋」あるいは「私塾」について002

続いては、後藤康志氏(長岡市立四郎丸小学校)の章の要約メモ。




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一、身分の高い者も低い者も学問はすべきことであって、百姓などに学問はいらないということは心得ちがいである。すべての人がみな学ぶべきである。しかしながら学筋(学説・学派)の悪いものはかえって害になる。程子・朱子・闇斎の学筋を学ぶべきで、その他の学筋はやめること。




これは明和9年(1772年)、新発田藩の藩校「道学堂」を作った8代藩主・溝口直養のお触れ。「道学堂」は庶民に広く開かれた藩校として開校されたのです。


また、藩内の郷村で講釈を行うため、社講制度を作った。
庄屋・名主・百姓など身分に関わらず学力あるものを講師に任命した。


これは前半においては、大人たちに対する教養講座的な意味合いが強かった。
11代藩主・溝口直溥になって再度、手入れされて初等教育も含んだものに強化されていった。




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新発田の土地にこのような教育観があったのか!!と思う。
200年以上も前にここまでの教育制度があり、広く学ぶということを欲していた人の多いこと!!

「寺子屋」あるいは「私塾」について001



今回の記事も4月の上旬の頃に思っていたこと。


以前から江戸期の教育に漠然とした興味があったので、いくつか文献をあたってみることにした。私にとってそれは「寺子屋」や「私塾」といったものがどのように機能していたのか?ということだった。

まずは、社団法人農山漁村文化協会から19881215日に発行された『人づくり風土記(15)ふるさとの人と知恵 新潟』を紐解いた。

この本は各章ごとに教員や大学教授、郷土研究家などが分担して書かれているもの。まずは波多野清子氏(十日町市立川治小学校)の章を私なりに要約し、メモ用に記したもの。


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越後の寺子屋のはじまりは、天和年間(168184年)に北蒲原郡中条町築地に西村平作が開いた翁亭が最も古いもの。

寺子屋のほとんどは1020年間ほど開業し、その師匠一代で廃業するのが一般的。
師匠の多くは僧侶、医師、士族として本業を持つ人が、そのかたわら営むことが多かった。
寺子の家の経済状況に合わせて、野菜、薪炭などの生活必需品を五節句に進物として贈っていた。
寺子の数は40名以下がほとんど。
村上市の磯部順軒寺子屋と大滝章九郎寺子屋は100人以上かかえていた。
入門の年齢は78歳が多く、在籍期間も25年とそれぞれに異なった。
それ以上に在籍して、助手となる者もいた。

寺子屋では読み、書き、算盤が中心に教えられた。
その他に、漢学、国学、詩歌、作文、華道、裁縫があった。

教科書は江戸や京都から伝わったものを師匠が写した「往来物」を使った。
また、「村名付」という寺子屋周辺の地名・地理を学ぶ教科書もあった。
三条市宝塔院住職隆全の書いた「三条往来」などがあった。
「商売往来」「百姓往来」など、寺子の家の職業に合った教科書を使ったりもした。

新井市の小池宇左衛門の寺子屋の「寺子式目」
一、机にすわって、むだ話やあくびをしたり、居眠りをしたり鼻をかんだり、努めて練習しない人を手本にすることは、悪いことです。
一、紙を散らかしている者は、上手になりません。
一、子供が煙草をすったり、酒を飲んだりしてはいけません。
一、両親には出かけることや帰ったことを知らせましょう。

中蒲原郡村松町の柄沢惣次寺子屋の「制詞の条々」
一、手習いに退屈せずに、精を出しましょう。
一、相弟子、兄弟はもちろん、友だちと仲よくしましょう。
一、店先で買い食いをしてはいけません。
一、遊びに出ても、憎まれ口を言ったり大人に無礼に振る舞ってはいけません。
一、碁、将棋、歌かるたなどはしてもいいけれど、やりすぎてはいけません。



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寺子と呼ばれた生徒の授業料が家庭の経済状況に応じて、決められていたのが興味深い。現在のように一律~いくら!~というものより柔軟に対応していた。現在、同じコトをやれるとは思わないが、その状況を想像すると面白い。

「三条往来」などは私たちも手に取ることが出来るのだろうか?読んでみたい。

寺子屋ごとの決まりごとなどは、現代の子ども達にも通じる普遍的なことも含まれる。教育はいま、どれだけ進化したのだろうか?退化したのだろうか?


2011/05/05

春、過ぎゆく宵に

4月の最後の週末、グルリと巡った休日を少し記録しておく。
これまた、とりとめもなく記すことをお許し願いたい。

新潟市江南区にあるSOLIDさんの見学会に行く。
無垢材を使った気持ちの良い空間がそこにはあった。
無知な私に対しても担当の後藤さんは丁寧に説明してくれた。
















その後、ピア万代に初めて行く。
スーパーのよりも大きくてイキのいいアサリを買いたいという目的。
曽我農園さんのトマトも初めて買っていただく、なんと甘いことか!!
同じく感動したのが、サラダセットなるもの、生産者のシールが
貼ってあったのだが、食後捨ててしまい、思い出せないのが残念。

慌ててピア万代のホームページを見るが、農産物の生産者までは
掲載されていない...残念。管理主である万代にぎわい創造株式会社さんの
ホームページにぜひ掲載していただきたい。

写真の花屋さんを通ってトキメッセに吹き上げる風が気持ちよかった。



福島潟をゆっくり歩くのは初めてだった。
いい空気を吸ってきた。
絵を描いていたおじいさんに話しかけた。
人物画は昨晩、晩酌をしながら描いたそうだが、
風景はその日、一日で描ききったそう。
山の峰に差し込む光がとても美しい絵だった。

田中優氏のホームページを見ていて、
菜の花に興味を持ったのも足を運んだ理由のひとつ。


帰りに近所のルーテシアというケーキ屋さんによって帰宅。
チョコをからめたラスクを食べる。
甘さで押し込まない、なんと香ばしいカカオなんだろうか。
人気店なのもうなずける。

2011/04/24

シネ・ウインドをこの街で続けていくために



























先日、シネ・ウインドで映画を観た際にもらった案内が上記写真。


年会費制度の見直しがあり、入会しやすくなったとのこと。
私も以前は会員となり、映画を観に行っていたが今は会員ではない。


シネ・ウインド支配人井上さんの文章にはこうある、


「映画が放つ想像力が多くの観客の心を豊かにする」


最近、観に行った映画についてもまさにそう感じていたところ。


市民映画館として発足したシネ・ウインドは
「(映画上映や映画を題材とした各種講座の開催、子どもへの映像教育など)がこの街の市民力を更に高めていく」
とある。
事実、シネ・ウインドがこれまでに新潟という街で果たしてきた役割は限りなく大きい。そして、私自身もその恩恵を受けたもののひとりである。


代表の斎藤さんは私に言った、
「じゃあさ、映画始まる前にLIFE-magの説明して、終わったら買ってもらえばいいさ」
数日間ではあったが、通ったこともある。


井上さんの文章、
「いまシネ・ウインドが無くなるのは新潟県にとって少なからぬ損失です。」
との文章には、意識的か、無意識か、経営への切迫感を感じる。


情けない話だが、私自身生活にそれほど余裕のある状態ではなく、資金的な協力が厳しい。
アンテナを向けておいて、興味の湧いたものを観に行くといった微々たるものだが、協力していきたいと思う。




それにしても何かアイデアがないものか?
映画を観るだけなら、TSUTAYA、wowow、スカパー、オンライン配信で自宅にいながら、楽しむことが出来る。
しかし、それでも尚、シネ・ウインドという場に多くの人が足を運ぶにはどうしたらいいのだろうか? もしくはスポンサーをより多く獲得するにはどうしたらいいのだろうか? 「市民」映画館がいま果たすべき役割は何だろうか?




ふと、友人・SKTMさんの本棚にあった、

『ドラッカー名著集 4 非営利組織の経営』P.F.ドラッカー著・2007年1月・ダイヤモンド社発行

が頭に浮かんできた。
頁を開いてみよう。