2011/05/11

「寺子屋」あるいは「私塾」について008


「寺子屋」と「私塾」の引用と箇条書きメモもひと区切りにします。

伊東多三郎氏著
『近世史の研究 第三冊 文化論・生活論・学問論・史学論』
株式会社吉川弘文館・昭和58年6月1日発行
定価7,800円



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(298p.)庶民の生かじり学問は家業を怠り、身を誤るもとだから、学問に深入りし凝ることは無用だという考えが、庶民生活の常識ともなっていた。

江戸期の思想家、石田梅岩はこう応える。
「学問をして人柄が悪くなるようなのは正しい学問でないからだ、真の学問はそのような悪事を直すものだ、真の学問の道は第一に身を敬み、義を以て君を貴び、仁愛を以て父母に仕え、信を以て友と交り、広く人を愛し、貧窮の人を愍み、功あれど誇らず、衣類諸道具等に至まで倹約を守って美麗をなさず、家業に疎からず、財宝は入るを計って出すことを知り、法を守って家を治めるものだという。」

国学者・鈴木雅之の民政要論「農民の不幸は貧と愚とによるのであるから、これを救うには公正な政治と経済とが必要であるが、なお根本対策としては、真正の学問の振興が大事である」


(322p.)結論「その荷担者は郷村社会の支配勢力をなす富商・地主層であり、彼等が武士階級と一般庶民階級との間に中堅層として確実に勢力を築いたことを考え合わせると、彼等が推進せる郷村社会の学問教育は近世学術史上だけでなく、封建制度衰亡史上にも深い関係を持つものである。何故なら、この学問と教育との成果が郷村社会の産業経済の発達の精神的・技術的基盤を形成し、更に尊攘思想の点火によって政治的意識の自覚へ燃え上がる要素を含んでいたからである。」

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いくつかの文献をあたってみて、江戸期の教育の豊かさを垣間見た。
調べることの面白さを改めて体験した。

これはタイトルにある「寺子屋」や「私塾」について正確に記すことなく、私の偏った記事とメモのまま、ひと区切りとする。

越後の国・現代の新潟に伊東氏のいうところの教育に理解のある「富商・地主」はいないものか?伊東氏が存命ならば、ぜひとも伺ってみたく思う。
現代の新潟においても多くの富を築いた社長は多い。リーマンショック以後の新聞記事の経済欄を見ていても過去最高益を出したとの記事は散見される。地方銀行や建設業ももちろんそのひとつ。

閉塞しきりの日本を変えていくのも、志の高い政治家や優等生の行政マン、というよりは地方ごとにいるリーダー「富商・地主」の果たすべき役割は多いように思う。